2006年03月26日
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それぞれ考えがあることだと思います。そして僕は情報はコントロールできない、もしくはコントロールが非常に難しいと考えています。

人の口に戸は立てられないと言われます。情報というのもそれと同じで、結局は誰かに何らかの形で広まってしまうことになるのです。だから僕はほとんど情報をコントロールしようとは考えず、発信する情報については、漏れても言いように加工してから伝えるか、全員に対してあまねく広めることにしています。

特にデリケートな内容の場合上手に流さないと、あとあと面倒になることが多く、流れてからの情報をコントロールしようとするコストよりも、発信時に加工するか、あまねく広めることに注力した方が低コストであることがほとんどです。

しかし、ある程度はコントロールできるのもまた事実です。たとえば、どこかに行くのに特定の人だけを誘う場合、誘う人と誘わない人が出てくると思います。そして誘う人にも誘わない人にも、合理的な理由が無い場合「なぜ誘われないのだろう」という疑問を抱かせますし、誘った人にも「なぜ自分が」という疑問を抱かせることになります。

そして通常誘わない場合は、行うこと自体を言わないので、相手が何も知らなければ全く問題ありません。誘われなかったという自覚もないのですから。

しかし必ず誰かを経由して誘わなかったことが発覚してしまいます。その場合の理由は非常に難しいのではないでしょうか。そして相手が中途半端に影響力が大きかった場合、その影響ははかりしれません。

僕の友人関係では、情報のコントロールを試みる人はほとんどいません。しかし、最近になってまたチラホラとコントロールを結果的に目指そうとしている人が目についたので、改めて考えてみました。

もちろん「コントロールができない」ということに気づくのが先なのか、小さなコミュニティの中で「コントロールできる」と気づくのが先なのか非常に興味深いところです。

個人的には、大きなコミュニティの中でコントロールできない情報に触れていると、小さなコミュニティの中では、比較的コントロールできるのではないかと考えています。コントロールできないことを知った上で、小さなコミュニティの中での小さなコントロールをするとオープンのイメージのままコントロールできるのでとてもいいことだと思います。



stock_value at 14:39│Comments(0)TrackBack(0)考え:04〜07年 

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