2006年10月

2006年10月24日
また仕事に誘われました。とは言っても、まだ詳しい話を聞いていないので、簡単に触れておきたいと思います。にしても、今回で仕事に誘われるのは4社目か・・・。自分で言うのもあれだけど、すごいな・・。
今回の記事も例に漏れず、誇大表現しているかと思うので、ご了承ください。

まず1件目。
今行っているような業界のお仕事です。詳しい話はわかりませんが、ネット関係でしょうし、セキュリティ関係だと思います。話がトップダウンできているようなので、就職とか面接ありきになってしまい、会社の内容を詳しく知ることができていません。とりあえず技術者としても、経営者としても、そして個人的にも相当な位置からのトップダウンは面白いので話だけは聞いてみたいと思います。ちなみに、結構な規模の会社で取締役レベルからの打診みたいです・・。前回の時は規模とか財務的なことがあるにしても、上場企業だったからその辺のインパクトは前回の方が強いんですけどね。

ということで、近々詳細を聞いた後にまた記事にしたいと思います。

2件目
塾関係+αみたいです。これもまた不思議な縁で話がきたのですが、この場合は、参画する際には取締役+実務をこなしてほしいということでした。この辺の話のもって行き方は、最初に誘われた感じと似ています。

僕が誘われるときには、なぜか取締役とか出資してとか、そういったおよそ26才の価値観とは大きく違う方面からのアプローチが多くあるように感じています。もちろんそれは僕にとって最高にうれしいことですが。と、同時に僕は普通の会社員として安定したい気持ちも強いんですけどね。

塾関係の話については、すでに過去に違う業務での実績があります。他の事業では利益も出ているみたいなので、多角化というか新規事業の立ち上げという所みたいです。それに僕も参加しないかと。もちろんリスクも大きくありますが、僕の年齢とか考えて非常に面白そうなのも事実です。

結局4社?ぐらいからのお誘い・・・。悩むなぁ。何より自分の事業を整理できるのかな?



stock_value at 18:52|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)仕事。 
2006年10月23日
昨日は逮捕された友人と僕の距離感について書きました。今日のが一連の記事の本題になります。

最近、友人から「仲のいい友人が捕まった」という相談というか話を聞きました。そして僕は先日の記事のような経験・体験をしているということが前提で話をしました。本当は blog に書かないでほしいと言われていたのですがごめんなさい。

話をしてきた友人は「逮捕された友人とは距離を置く(縁を切る)」と言っていたのです。その友人はほとんどすべてがすべてそうなのですが、色々考えるのはいいのですが、プロセスと結論に問題が多く、いつもそのことについて僕は指摘をしていました。そのことについてはまた別の機会で。

さて、その距離を置くという結論はなぜ出たのか聞きました。色々と理由をつけて考えているのでしょうが、距離を置くという結論ありきのように聞こえました。

僕としての意見は
・犯罪を起こす前と起こした後の性格の変化
・罪の重さ
・自分の立場、相手の立場。

が主な問題点だと思いますし、どれもデリケートで重要な問題です。

犯罪を起こした事実は消え去らないことです。しかしなぜ犯罪を行ったのか。特に犯罪を起こす前と起こした後に明確な変化があるのか。それが大切です。友人はわかりませんが、僕は少なくとも犯罪歴を見て友人を選んだりはまずしません。もちろん、距離とか親しさに変化が起こる可能性は否定しません。にもかかわらず犯罪を起こした時点で、縁を切るというのは少し安易な気がします。性格に大きな変化が無く、これからも今までと同じようなつきあいができるのであれば、わざわざ縁を切る意味というのはあるのでしょうか。

あとは犯罪の種類にもよります。殺人とかだと、さすがに今までと同じようなつきあいをするのは難しいでしょうし。窃盗などであれば、家に招待するのは難しいと思います。信用というのはそういう物でしょうし、反省の度合いとは別だと思います。それについては、本人もある程度の自覚が必要ですし、こちらがそれについて気を遣う必要はありません。
ただし、窃盗とかであれば、家庭環境などもあるので、昔は貧乏だったけど今は働いて収入もあるような状態であれば、そこまで疑う必要も無いとは思います。その辺は臨機応変にです。そして話を聞いた友人が言うには、僕の主観では、"縁を切らなければならない"ほどの重大犯罪でも無いような気がします。

そして自分の立場と、相手の立場です。前回の記事のように逮捕というのは相当な精神的プレッシャーがあるようです。もちろん犯罪を犯したのだからそんなことは当たり前です。しかしそのプレッシャーを受けている友人を目の前に、自分が縁を切ることによってさらに追いつめるような事は意味があるのか疑問です。そして縁を切るような事はとても簡単ですが、安易に追いつめるよりも、むしろそういった反省を友人の立場から促すこともできるのではないでしょうか。

そして上記のことから僕の結論としては、縁を切るというカードは温存しつつ、出所してからの状態を見極める意味でも、しばらくは様子見も含めて仲良くしておけばいいのではないか。ということです。

というよりもそもそも縁を切る理由が見つからないし・・。ちなみに犯罪歴の有無で友人を決めるという基準を持った場合、大抵の交通違反は犯罪歴になるので、その辺の正当性を聞いてみたいですね。

そして上記の話を伝えたところ、どうやら縁を切るというのはとりあえずやめておくようです。しかし今度は別の問題が発生しています。このあたりについても記事にしたいですね。

2006年10月22日
深層に根ざした差別心というのは非常に大きな問題だと思いますし、仕方のないことだとも思います。例えば僕は前の会社で目の見えない人がいました。今でこそ、どの程度の距離感が必要なのかわかりますが、最初の頃はそれがわからなかったので恐怖すら感じた物です。

こういった場合にわからなかったのは、健常者として接するべきなのか、障害について意識して接するべきなのか。ということです。

食事などのちょっとした行為一つとってもそうなのですが、目が見えないというのは箸の位置や食器の位置など全くわかりません。じゃあどこまで案内するのが適切なのか。結局その人は箸の位置だけを教えたら自分でうまく食事をしていました。たぶんその距離感がその人にとって大切なんだと思いました。一方で、すべて案内していたら、僕自身が面倒を感じて、一緒に食事したくないなという気持ちが芽生えることは嘘ではありません。

もちろん、箸の位置の他には汁物とか熱い料理は、別途注意を促します。手探りで食器とかを見つけるので、倒したりすれば大変ですし。しかしそれだけを案内してしまえば食事をしながらの会話もできますし、ナイフやフォークも器用に使用していました。

さて、そういう初めての体験というのは色々考えさせられる場面があります。

僕の友人で警察に捕まった人がいます。

罪状の内容についてはあまり深く書きませんが、僕が確か大学1年ぐらいの時だったと思います。高校が一緒だったのですが、大学に入ってからはたまにしか会いませんでした。

逮捕を聞いたときは、確かお茶している時だったと思います。入学した直後は、僕も新しい環境で色々ストレスがありましたし、逮捕された友人とは別の友人も就職のストレスがあったようで、ちょくちょく会っては話をしていました。僕が大学とかアルバイトのこと。友人は就職先のことなど。そのとき「○○が捕まったって知ってる?」といわれたのです。その友人も詳しいことは知らなかったらしいのですが、とにかくそれは事実だと。

後から知った話ですが、逮捕されたのは恐喝(未遂?)と傷害だったと思います。正確には覚えていません。あとは、未成年だったと思うので正確には少年刑務所?に行ったのかもしれません。この辺は全くわからないです。ただ、数ヶ月戻ってくることはありませんでした。

こういう時に性格がよく表れるのですが、それをきっかけに縁を切る人や、距離を置く人。同情をする人などです。この場合には、それぐらいしかありませんでした。捕まることによって逆に仲良くなる人というのはいませんでした。

僕は、結果的にその友人との距離は変わりませんでした。とりあえず出所するまでは連絡を取れませんでしたし、高校の時からある程度性格を知っていたので、捕まることについては特に驚きませんでした。

今となって振り返ってみても、とくに今の距離のまま、そのときの距離感でいいとおもっています。僕の性格の場合、悪い方向に引きずられることも絶対にないですし、変な影響を受けることも絶対ありません。

出所してから、友人と会いました。直後だったので、妙に緊張したのを覚えています。どんな話をするべきか。どこまで知っている態度でいればいいのか。デリケートな問題に直面するのは苦手ですから、慎重に言葉を選ぼうと考えていました。

友人は努めて明るくしゃべっていました。自分の犯したことを半分冗談のようにも表現していました。しかし終始感じたのは尋常ではない反省をしているということでした。誤解を恐れずに言うのであれば、この友人がここまで "もうしない" という考えを持っているのかと正直以外でした。もちろん、根は優しい友人なんですけど。

今はあまり会っていませんが、毎年年賀状の交換だけしています。また会いたいなぁ。今では結婚もして一児の父ですよ。

そして本題である続きは明日。

2006年10月21日
最近、友達と話をしていると前置きとして「このことは blog に書かないでね」と言われることが増えてきました。昔にも少しあったのですが、最近は結構顕著です。だいたい読者数が少ないのに言われるって事は、読んでないけど書いているのは知っているという状態で、書くことを拒否しているということですね。確かに自分が知らない範囲で、どのようにかかれているかわからないと不安になるという気持ちは理解できます。

ただし注意してほしいのは、この blog で個人が特定できる場合というのは非常に少ないと思います。見ず知らずの人は当然特定できないでしょうし、友達のなかにも特定できる記事は少ないと思います。そのように書いていますし。また万が一特定ができてしまう場合は非常に慎重に記事として取り扱っていると思います。そのつもりです。
逆に特定できる場合は、本人がある程度覚悟している場合とか、トラックバックなどで露骨につながりを示す場合がほとんどです。

ただ書かないでほしいと言われるような記事は確かにデリケートな問題であることも事実です。周りから見た場合には他愛もないことが多いのですが、確かに本人にとっては大まじめで真剣な問題です。

これは僕が blog の記事にしないと考えている、家族、恋愛、性、に通じる物があります。ただ性的な部分は少しずつ書いてもイイかなぁという精神的変化は生じていますが・・。

またデリケートな問題だからこそ、僕の考えを通してデフォルメをされるのがイヤというのもあるかもしれません。僕は blog では僕が思ったこととか感じたことをその通り書いているつもりです。ただ色々話を聞いてみると、少し大げさに書いているとか、都合よくかかれているという指摘を受けます。こればかりは僕では理解できないので、本当のことなんでしょう。

「そうなるとこっちは真剣なのにお前がおもしろおかしく書くな」となってしまいます。その指摘はもっともだと思います。

ただ僕としても、秘密にしたいような内容の話こそ書きたいと思うのも事実です。やっぱり真面目な話は面白いですからね。いずれその話が思い出となって書くことについての許可が出た場合は何らかの形で記事にしたいと思います。

2006年10月20日
古新聞を読んでいるという記事を昔に書いたことがあります。そしてそれは、先を読めるようになるのではないか。という期待も含めたトレーニングの一つであるとそのときは書きました。漠然とではありますが、そういった効果を期待しているのは事実です。もちろん、それ以外のメリットも多くあるように感じます。

もちろん、一方では、最新の情報を得にくいという古新聞を読むデメリットもあります。

新聞では時事についての記事しか書いていませんが、僕は文章を読むときのクセで先のことを考えるようになってしまいました。それは結果を知ってから、過去の事実を知るので、新聞に書いてある古い記事を読みながら、"これはこうなった" という事を考えるので、自然な流れかもしれません。

新聞を読むときにだけそうやって考えるのであれば特に問題はないですし、そうやって考えた方が古新聞をより楽しめるのでいいことだと思います。しかし僕が気になっているのは、友達との会話でもそのように先を考えてるようになってしまったと言うことです。

こういった考え方は一般的なのかもしれませんが、僕の場合何かの出来事があると、まずは将来起こりうる分岐を考えます。将棋などに似ているのかもしれませんが、その中の分岐で面白そうなものがあれば、さらに分岐先の分岐について考えることもあります。

それが友人の話だった場合、定期的に連絡を取り、僕の考えているストーリーを少しずつ訂正したり、新たな分岐を考えたりします。

イイ方向でのストーリーを考えるのは、どの道を選んでも喜べることなので、それはとても楽しいことです。しかし実際にはネガティブな事について、ストーリーを考えることが非常に多くあります。それは僕が今置かれている環境によるせいかもしれませんが。

特にこのストーリーを考えるタイミングは以下のようなシチュエーションが多いと思います。
・新しいことを始める場合
・悩みがある場合
・トラブルが起きている場合

新しいことを始める場合ですが、このときの僕の質問は非常にパターン化されていると思います。それは比較的抽象的な質問をするということです。「今度始める○○についてどう考えている?」という感じでしょうか。仕事に就く場合やアルバイトを始める場合など非常にわかりやすいのですが、このパターンで質問をします。

悩みがある場合、例えば自分の努力で解消できる場合は解消した結果を聞くことが多いです。「○○が解消したらどうなると思うの?」と。自分で解決できないような問題は、どうしたいのか、その結果どうなるのかというパターンで聞くことが多いと思います。

トラブルが起きている場合は、このパターンは結構多いのですが、どうしたいのか、その結果どうなるのか。そして今回のトラブルからどういう事が得られたのか。それについて聞くと僕もトラブルを擬似的に体験したような気になってとても勉強させられます。


僕はこういった質問をするとき、トラブルでの質問は、経験として勉強させてもらうことが多く、悩みについては客観的な立場にいることが多くあります。つまり聞く事ばかりでそのことから将来を想像することはあまりありません。

一方で新しいことを始める場合は、僕は色々と考えを巡らせます。特に仕事でも遊びでも、その人の性格を知っている場合に、「この人がこう言っているということは、こうなるな」と、先を考えることはとても面白い事だと思います
最近では、将来に影響を与えるような重要な分岐について何となくわかることが多くなってきました。だから特に結果がある程度見えてきた時点で、「最初の頃に○○って僕が聞いたときに、○○って答えたんだよね。そのときの僕の懸念が今まさに顕在化してるじゃん」という話がたまに出てきます。

ただし、新しいことを始める場合といっても、明確に区切れていないこともあるので、その判断が難しいところです。そしてそのときは時間とともに考え方が少しずつ推移しテイクので、その変化を見逃さないことが重要です。

例えばグレーな仕事をする場合とか、友達関係とかについての何かがあった場合に考え方が大きく変化するので面白いですね。

こういう事はある程度先が見通せたという意味でうれしいことでもあります。一方でいいことならともかく、悪いことも多いのでちょっと残念にも思います。

2006年10月19日
試験勉強などで何かを記憶するとき、書いたり読んだりの反復で記憶します。そのやり方が時間がかかるかもしれませんが、手っ取り早い気もします。

ただし、生活をしている中で昔の記憶というのは反復が無くても記憶されてしまいます。そしてその記憶は、音や匂いがあると強烈に結びつくような気がします。例えば昔の TV 番組を見れば、その番組の記憶だけではなく、そのころの自分の環境に対する記憶もよみがえってくるでしょう。こういったことは、 TV 番組と生活の記憶が結びついているからこそではないでしょうか。
匂いも同じで、タバコや香水のにおいというのは、それを嗅ぐことによってそのころの記憶が蘇ってくると思います。

僕は音楽はあまり聞きません。そのためカラオケなども全然できないのですが、それでも友達と一緒にカラオケに行くことがあります。このとき、カラオケが好きな友人は比較的そのときよく売れている歌や、ヒットしている歌を歌うことになります。そのときはそれで全く関係なく友達のカラオケを聞いています。

数年が過ぎ、全く別な友人とカラオケに行ったときに、懐かしい曲を歌う友人や、特定のアーティストのファンの友人は、結果的に昔友人が歌っていた曲を選ぶことがあります。このときに僕はその歌とともに、昔の友人の事を思い出します。そして僕が学生の頃であれば、その時の事も一緒に思い出すことになります。

イイともイヤだとも思いませんが、なんとなく懐かしくなって切なくなるのは事実です。

匂いも同様です。匂いの場合、他人からというよりも僕自身からです。僕は香水を付けるのですが、初めて買った香水から変えることなく今も使っています。本当は何種類か使い分けたいのですが、今のが気に入っているので、変えるのに少し抵抗があります。

そしてガムです。僕は歯の健康にいいという理由からキシリトールガムをよく噛んでいます。

香水もガムも20才になる少し前ぐらいから使用し始めたと思います。正確なところは定かではありませんが。

この香水とガムですが、僕のキャラに合っているのかわかりませんが、結構好評です。それは僕が香水とか付けないようなキャラだから、友人とか恋人が「こいつ絶対香水とかつけないハズなのに、なんかいいにおいがする。おかしい」ということで、「なんかイイ匂いするね。」という発言につながっている可能性はあります。

例えば香水とかについては、友達(というか大抵恋人ですが)、突然鼻をクンクンさせて匂い始めます。で、僕が「どうしたの?オレ臭い?」と聞くと、「なんか香水つけてる?」と聞かれて、「ん。つけてるよ。ヤな匂いだった?個人的には気に入ってる匂いなんだけど」と言うと「ううん。イイ匂いじゃん。何つけてるの?」という感じで結構好意的に受け取ってもらえるのです。

ガムもそうです。「そういえばいつも話ししてるときとか甘い匂いするけど、ガムの匂い?」と聞かれた事がありました。そのときも「そうだよ。キシリトールガムが好きで結構食べてるんだけど、イイ匂いでしょ。」「そうだね。この匂い好きかも」という感じで肯定的でした。それ以外にも言われたときは、「syoとキスするときっていつもイイ匂いするけど、ガム噛んでるから?」と言われたこともあります。「そうだよ。前にも好評だったことがあったし、俺自身もタバコとか吸わないから、口の中が特定の匂いになってる訳じゃないし、ガム噛んどけば安心じゃん。なによりオレの噛んでるガムは歯にもいいし。」という感じでした。

コーヒーとか飲んだ後の口の中ってコーヒーのいい香りとは裏腹にイイ匂いとは限らないですからね。

自分のつけている香水の匂いを嗅ぐと、自分の噛んでいるガムの匂いを感じるとこのようなちょっぴり切ないお話を思い出してしまいます。

2006年10月18日
ちょっとしたことから、外国の人とコミュニケーションをしなければならなくなりました。僕は英語が非常に苦手なので、意思の疎通は第三者を通して行うことになります。英語わからないし仕方ありません。

わかりやすくするために、以下登場人物は3人です。
・アメリカ人
・日本人(英語できる)
・僕(英語できない)

お昼になったので、適当なお店で食事をすることになり、ごく普通のランチメニューを注文しました。3人で利用したのですが、提供される食事の早さに若干の差がありました。
具体的には、アメリカ人の食事が一番最初で、続いて日本人に。そして最後に僕。最初と最後の差は、3分ぐらいだったと思います。

僕は日本人の人に、「彼(アメリカ人)に、どうぞ先に食べるように言ってくださいよ。」とお願いしました。その人は、そのように英語で言ってくれたのですが、と同時に、僕に対して、「彼は絶対に先に食べないよ。」と言いました。

全員の食事が出てくるまで待つというのは理解できます。しかし「お先にどうぞ」と言えば、言われれば先に食べるのものだと思っていました。今までそれで何の問題もなかったですし。

で、後日談ですが、少しの時間アメリカ人と2人きりになってしまい、少し話をする必要が出てしまいました。で、最初の通り僕は英語ができないので、単語などを駆使しなんとか意思の疎通を図りました。そのときに、「こないだご飯食べたとき、なんで全員の料理が揃うまで食べなかったの?」という話をしました。そうしたら彼は「マナーだから」と答えたのです。

で、英語のできる人にもうちょっと詳しく聞いてもらうと、そういう家庭環境で育ち、とても厳しく教えられたということでした。そして今ではそれが当たり前になっているので、待つのはなんの苦にもならない。という事だったのです。

うーん。なるほど。僕もこれからはできるだけ待つようにしよう。

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