2005年06月03日
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僕は生活の中に、踏み切りというものが存在していませんでした。僕の住んでいる近所に線路が無かったのです。線路は以外に多いもので、地方であれば、電車は地上を走っているので、線路を目にすることがありますし、都心であっても、私鉄の場合は、比較的多く線路があります。

しかし、それが東京の区内となると、線路を目にしなくなるのです。もちろん、ゼロではないのですが、最寄の踏切が結構遠いことは良くあるのです。区内には、私鉄はあまり通っていませんし、JR は高架を走っています。それ以外の電車についてはすべて地下を走っています。

そうなると、踏切を目にする機会は減るのです。

そして、僕が目にする近所にある踏み切りは、貨物列車の踏切です。それでも結構遠い場所にあるので、行動範囲が広がった中学生ぐらいに頻繁に見ることになりました。

そして、貨物の踏切だったので、常時その踏み切りは上がっており、電車が通るために踏切が降りることは本当にごく稀だったのです。意図的に電車が来るのを待たなければ、その踏切が降りることを目にするのは、僕の頻度では数年に一度です。

貨物の通行が、日に数度だと思いますので、1週間に1回程度しかその踏切を横断しない僕にとって、それは妥当だと思います。

上記のようなことから、僕は踏み切りをいいイメージとして捕らえています。オブジェとして考えたり、たまに遮断機が下りるときは、どんな電車が来るのだろうかと、心躍らせることになるのです。僕の場合は、踏切が身近になったのが中学生ぐらいからですが、もっと小さなときは、きっとドキドキしながら遮断機が下りて電車が来るのを待っていたことでしょう。

だから僕はオブジェとしての踏切がとても好きなのです。

しかし最近、踏切の本来の用途として使われている現場を体験しました。もちろん、それまでも思いもかけない踏み切りによって、イライラしたことが無いと言えばそれはウソになります。しかし、そんなに強く気にする程のことでもありませんでした。

こないだのゴールデンウィークの際に、僕は普段スーツで行く会社に私服で出社しました。お客様対応が無いことや、業務としても留守番といった性格が強かったのでそうしました。そして出勤方法も、普段は電車で通っていますが、そのときは、道も空いているだろうとバイクで出勤したのです。

僕が働いている場所は渋谷ですが、会社に行くまでに一つだけ踏み切りを超える必要があります。そしてその踏み切りは会社のすぐ目の前なので、どうしてもそれを避けることはできません。

しかし、踏み切りにポジティブなイメージを抱いている僕は、特にそのときも意識せずにバイクで会社に向かいました。

後少しで会社だな。ちょうど時間もいい感じだ。そう思って最後踏切を渡ろうとしました。

しかし、待てども待てども、踏切が上がる気配がありません。踏切にはどちらから電車が来るのかを示す矢印が出ています。「→」が出ていれば、電車が左から来るわけです。そしてその通り電車が通過。。。
通過中に今度は「←」が点灯。。。少し待って電車が右から左へ通過。通過しても消えません。そのままもう一台右から通過。。。通過の途中に「→」が点灯・・。

ビックリしました。そしてイライラしました。いつまで待っても矢印の表示が消えて遮断機が上がらないのです。15分ぐらい待ったのですが全然ダメ。どうなっているのでしょうか。
今まで心を躍らせて通過を待っていた僕ですが、なんともいえない焦燥感を味わいました。結局20分ぐらいで開いたのですが、それでも僕にとっては "開かない踏切" の一端を垣間見たような気がします。

だから僕は、踏切が好き。だけど開かない踏み切りはキライだ。と、そのときから強く考えるようになったのです。


stock_value at 18:26│Comments(0)TrackBack(0)考え:04〜07年 

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