2005年07月09日
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僕は東京生まれの東京育ちです。父親は関東の出身で、母親は東京の出身です。
そのため、両親ともに言葉の "なまり" がありません。
そして友人も東京の人が多いので、僕自身がなまる要素というのはあまりありません。

僕はなまりについては、特に何も感じません。うらやましいとも、恥ずかしいことだとも思わないのです。使い分けができると、単純にすごいなぁとは思いますが。

東京に住んでいると、そうした言葉の雰囲気の違いにあこがれる人が多いのもまた事実です。

そのあこがれる気持ちは非常によくわかります。特にテレビでは関西圏の言葉はよく耳にしますし、東京は東北にも近いので、大学生ぐらいになると、東北方面から東京に来る人も多く、比較的そうした言葉の違いを意識させられるのです。

そうした言葉の違いにあこがれ、結果としてその言葉を使う "人" にもあこがれる。そうした流れはごくごく自然です。そうしてその人と一緒に過ごす時間が長ければ、自分自身の言葉遣いも少しずつ変化することになります。

この、自然な流れの中で影響を受け、少しずつ変化する。それは仕方の無いことです。

しかし、あこがれることによって、無理やりにその言葉を使おうとする場合もあります。この場合は、とても聞き苦しくなるのです。

使いたくなる気持ちが分からないでもありません。しかし、そういった環境に置かれてない状態で、イントネーションの違いをうまく習得できるのか、については強い疑問があります。
また、あこがれることと、自分が (間違った) なまりを使うことが同じ意味だとは思えません。
自分が育ってきた環境や、現在使っている言葉をそのまま利用すればいいのに、なぜそこまでして、使おうとするのでしょうか。

もちろん、なまりを持っている人が東京に来る場合とは違います。地方から東京にきた場合は、多少不自然であっても、東京弁を使用するでしょうし、また東京の人がそういった場所に住むようになった場合も、言葉というのは変わっていくことになります。

僕が問題だと思うのは、東京の人が東京でそうしたなまりを使用することなのです。

さて、そういう僕ですが、僕はなまりはほとんどありません。最初に書いたように東京生まれ、東京育ちですから。

しかし、高校・大学・社会人になってから、それぞれ数名の関西系の人、東北系の友人がいます。そして特に高校生のときの関西人の友人には、多大なる影響を受けているため、ややイントネーションが違うようなのです。僕自身は全然分かりませんが、ごくごくたまに、「なんかなまりがあるよね」という指摘を受けます。

だからこそ、僕は東京弁を正しく使えるように頑張りたいと思います。

そして、無理やりに地方の言葉を使おうとするのは、やっぱり不自然なのでやめた方がいいと強く思うのです。恥ずかしくないのかな?


stock_value at 19:41│Comments(0)TrackBack(0)考え:04〜07年 

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