2005年08月18日
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先日の「2005年08月08日:盲目の方へ道案内」 を盲目の友人に読んでもらい感想をもらいました。

一応、今回のような試みは初めてであり、今後も試行錯誤してノウハウを得ていく中でとても重要な記事となるかもしれません。あくまでも今回の文章主体はその友人なのでそのまま掲載させていただきます。
なお、メールでもらった文章なので、割愛や若干の編集が加わっていることをあらかじめ報告しておきます。

感想を頂きましてありがとうございました。

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改めて読んでみました。当事者だからというわけじゃないけど、とてもいい文章だね。すばらしい。ずいぶん調べたのかな、それとも貴君の洞察力がそれだけ秀でているということなのかな。いずれにせよ、ふつうの人はここまではおそらく考えてはいないだろうと思いました。

表現とか単語とかもよく熟慮され選択されているし、特につっこむような個所もない。

しいていうならば「盲目」ということばは、わたし自身は実はちょっと抵抗があります。「盲」の字が、たとえば啓蒙の「蒙」の字などと同様に差別的という説があるからなんですよね。ただ「盲目」は、NHKやほかのメディアでもふつうに使われているし、書籍のタイトルとかにも使われているから、ちょっと判断は難しい。それに、これには社会的な側面のほかに、貴君が指摘しているとおり、医学的な側面があるんだよね。

で、まず社会的な側面として、
「盲目のピアニスト」とか『盲目の科学者』なんてあるから、このことばが社会のどういう立場の人にとっても、日本では(日本語だから「日本では…」というのは変だね)もっとも抵抗なく受け入れられているのだと思います。わたしが一番、うーん、ちょっと表現が難しいのですが、感銘を受けたのはここかなと思います。つまり、ふつうならば「全盲」を多用するところなんだろうけど「盲目」という単語を主に使っていることで、全体に、なんとなく丸みを帯びた文章に感じられます。これが正直、以外でした。blogの記事で、表現面で「よく考えているなあ」と感じた一つの理由はそれ。

- 中略 -

話を戻します。「盲目」のほかに「目が見えない」という状態(あるいはそういう状態の人)を表すために「全盲」「盲人」「視覚障害(者・児)」などがあります。最終的には、その人の好みの問題になってしまうのですけれども「障害」ということばをいやがる人が多いのも事実ですね。これは、当事者の場合と周囲の人の場合とがあります。

- 中略 -

長くなりますがm(_ _)m、次に医学的側面です。

視覚障害ほど十人十色なものはないといわれます。わたしの場合、もともと弱視で、そこから神経系の障害で視力と視野がなくなっていったため(わずかに光覚はあります)、外見だけでは視覚障害者にみられないことが多いです。なまなましい話でなんですが、眼球そのものが残っていて、眼球運動もまだできるため、白杖を常用しているにもかかわらず、何年もいっしょに山登りをしている人や、大学の後輩などからも弱視だと信じられていたということがよくあります。

- 中略 -

つまり、全盲とか盲目とかいうときに、どこまでの範囲なのかの線引きが難しいわけです。視覚障害者スポーツなどでは、公平さが求められるために、光さえ全く感じられない人と、光だけは感じられるという人を一応区別しますが、医学的には両者とも全盲という扱いです。光だけが見えても、生活上、ほとんど意味をもたないからです。それに、光が見えるといっても、夜と昼の区別がつく程度か、あるいはペンライトの点灯しているのがわかるのか、千差万別で(環境の影響やそのときのコンディションにもよる)、測定しようがないのが現実です。

さらに、これに弱視が加わると、指標などないも同然となります。ランドルト環(Cの字)検査で調べられる視力は、単純にどこまで小さいものが見えるかという測定でしかありません。視覚はそれほど単純な器官ではなく、水晶体だけでもカメラのレンズの球面の複雑さを考えてもらえたら想像してもらえると思うけど、視覚の程度を分類すること自体が不可能にさえ思えるほどです。

弱視の人の中には、中央は見えるが周辺が見えないとか、逆に周辺は見えるが中央が見えないとか、遠視、近視、乱視、さらには人によって見えやすい色や明るさやかたちや大きさ、それらの組み合わせの仕方やバランスやコントラストなどがファクターとして存在します。そして、それらは、当人の主訴に頼らざるを得ない(客観的には医者でも完璧な判断はできない)という問題があります。もっとも、それは他の障害や病気でも同様ですが、視覚障害の場合、結局その人の見え方がその人にしかわからない以上、より顕著であるといえます。

- 中略 -

あと、本題の道案内の仕方についての感想ですが、syo君のやり方が適切だったと感じました。その人の知識やら経験などは、赤の他人にはもちろん見当もつかないわけですから、聞かれた範囲で答えるしかないです。どこまでを知りたいのか、何をしてほしいかを表明することは、道を聞く側の責任でしょうね。

が、その人が外出時に白杖を持つということは、仮に多少視力がある、もしくはいくらかでも地理に明るいとしても、暗黙のうちに「目的地への誘導、または充分な説明を必要としている」ということだと解釈もできます。たとえばわたしの場合、どんなに慣れた道でも迷うことはありますし、知識や経験が充分ではなくて(あるいは充分な場合でさえ)、必ずしも役に立つとは限らないことが多いです。誤解のないように書いておきますが、もちろんいつでも誘導してほしいという意味ではありませんし、人の時間を割いて何かをしてもらうことを当たり前だと考えている人は少ないはずです。だから(視覚障害者への道案内だけでなく)助ける側も自分を犠牲にしてまでやる必要はなくて、その人のそのときできる範囲内で協力をしてあげたらいいのだとわたしは思います。

道案内も、白杖をもち人に道を尋ねている以上は、それが自力ではできないのだと解釈できますが、もし時間がなくてしかも行く方角が違うのであれば、やはり今回のように方向と具体的な目印を伝えれば十分です。仮にその人が首尾良く駅に到達できなかったとしても、視覚障害者がそうしていろいろな人や環境から少しずつヒントを得ながら自分で歩くということは、非常にいい勉強になります。誘導されてしまうと、逆に何の記憶も残らずその場だけのことになってしまいがちです。

- 後略 -

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stock_value at 10:27│Comments(0)TrackBack(0)考え:04〜07年 

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