2007年07月13日
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個人的にあまり好きでは無い人がいます。あまり好きになれない理由の一番は、知ったかぶりだからです。

幸いなことに最近では滅多に交流することが無いので、あまり思い出す場面もなかったのですが、先日の飲みの時に来ていました。ということで少し思ったことを書いておきたいと思います。

知っているという形で会話を進めることのメリットが正直わかりません。そこにはどのようなメリットがあるのでしょうか。当然話を聞いていれば、その濃さでその人が本当に知識を持っているのか区別がつきます。つまり知っていると言っているのが本当なのかウソなのかは、簡単に区別がついてしまうのです。

知らない事がバレているのになぜあえて「知っている」という必要があるのでしょうか。

特に僕はSEとしてのセキュリティの知識とかであれば、結構程度知っています。というよりもその当たりは仕事で使うので、常識的な範囲で知っている程度でも、普通の仕事をしている人には浸透していない用語も多々あります。
だから僕は、結構丁寧に自分の仕事に関連することは話をします。そうしないと伝わっているのかとても不安です。その人としゃべるときは、その人が知っているというので、結構基本的な部分を端折って話をしてしまいます。

そのときの会話でもラマダンの話が出ました。僕は以前にもラマダンで記事を書いたことがあるのですが、昼間は食事が一切できないので、日本に住んでいるそう言う宗教を信じている人には、とても厳しい事だと思います。もちろん僕もラマダンについてそんなに多くの話を聞いたことがあるわけではないので、当時記事に書いたような話をする予定でした。

で、ちょっと試したくなったので
Aさん「こないだラマダンの学生が生徒で来てて彼らとても大変みたいだったんだよ。もちろんあまり厳しく守らない人もいる見たいなんだけど、その子はとても熱心なんだよね」
僕「そうなんですねー。確かに僕も昔仕事でラマダン中の人がいて、本当に大変そうでしたよ」
知ったかさん「そうですね。ラマダンの人は本当に大変みたいですよ」

という会話の流れになったのです。

僕はそこで知ったかさんに対して「本当に大変みたいですよね。なんかそう言う人が身近にいたりとかそう言うのあります?」といって聞いてみました。
そうすると案の定「いや身近には特に無いんだけど」そのように言っていました。不思議なのは、なぜそう言う体験とか自身に基づいた経験が無いのに、大変だと言えてしまうのでしょうか。想像だけで言っているのでしょうが、「知っている」というだけで会話も先細りになってしまいますし、あまり意味のあることではありません。

ということで、ちょっと会話の振り方ができたので、今度知ったかさんと会ったときにはもう少し色々な事について話を振ってみたいと思います。


stock_value at 22:30│Comments(0)TrackBack(0)日々:2007年 

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