2019年03月11日
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自身が明確な不幸な状態というのはなかなかありません。立場が変われば特に気にならないようなことが多いと思っています。
一方でわかりやすい不幸な状態というのもあります。

身近なところでは、注文した商品が思っていた物とは全く異なっていた場合。特にその金額が高ければわかりやすい不幸だと私は考えます。
かつて僕が学生だったころ、CPUの形状を間違って購入したことがあります。お金が無かったのにもかかわらずそのようなロスはとても、未だに覚えているほどにつらい出来事でした。

そういう話をしたときに、相手から「不幸中の幸い」と、ぽっと言葉が出てくる場合があります。それをそのように考えるのは私自身でありたいために、その言葉がでてくるととても違和感があります。
確かに代替性のある不幸というのもあります。想像よりもケーブルの長さが短い。そのような場合には延長することが通常できるので問題ありません。とか、本当にそのレベルです。機器の寿命が来て、すぐに利用したいタイミングで利用することができなかった。でもその結果としては大きなことにならないとか。それであればどっちみち寿命なので問題ありません。

一方で、商品を購入して詐欺に遭った場合、怪我をしてないとかそういう意味では幸い部分もありますが、詐欺の場合には肉体的な損失との兼ね合いをさいわいの要素にもってくるのは不自然だと思います。
会話の流れの中でそういうことはよくあると思うので、意識してみたいと思いました。


stock_value at 13:50│Comments(0)考え 

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